
歩数計を見るのをやめた理由
数字に縛られない生活への一歩
昨日から、私のスマートウォッチの画面から、時刻と曜日以外の情報を全て追い出すことにしました。それまでは、歩数、歩行時間、そして活動的に過ごした時間という3つの指標を常にモニターしていました。この小さな変更が、思いのほか大きな解放感をもたらすことになったので、今回はその話をします。
数値化された健康という罠
私のスマートウォッチは、3分以上連続で歩かないと「有効な運動時間」としてカウントしない仕様になっています。また、世間一般に広く知られている「一日一万歩」という指標は、このスマートウォッチではゲージとして可視化されており、満タンにしないといけない、と思わせるギミックとなっていました。
ところが、これらの数値目標は、本来であれば自然な探索や発見の喜びに満ちているはずの散歩を、ただのノルマ達成の作業へと変質させてしまっていました。新しい道を見つけた時も、「これは3分以上連続して歩けるルートだろうか」と考えてしまいました。季節の移ろいを感じる余裕すら失われていきました。
幸福度と自由の関係性
この経験を通じて、幸福度を高めるために最も重要なのは、「自分は自由である」という感覚を持ち続けることだと気づきました。そして、その自由を阻害する最大の要因の一つが、本質的ではない情報や数値に無意識のうちに振り回されることにあるということにも。
問題は、これらの数値や情報が、私たちの意図しないタイミングで目に入ってくることです。一度目にしてしまえば、その数値は私たちの意識に入り込み、行動を制約し始めるのです。
完全な遮断ではなく、選択の自由を
今回の変更で重要なのは、歩数計の機能自体を無効にしたわけではないという点です。必要に応じて確認できる状態は維持しています。これは、「見ない」という選択を自分の意思で行うという、微妙だが重要な違いがあるのです。
同様の取り組みとして、以前からニュースアプリの通知も無効にしています。ビジネスチャンスの発見など、明確な目的を持ってニュースを確認するのであれば、通知のたびに気を取られる必要はないでしょう。思えば、かつての新聞が朝刊と夕刊だけだったのは、人間の情報摂取にとって適切な頻度だったのかもしれませんね。
新しいミニマリズムの形
これらの経験から、真の幸せを追求する上で必要なのは、物事を完全に切り捨てるような極端なミニマリズムではないと考えるようになりました。むしろ、アクセスする自由は保持しつつ、「強制的に情報を取らされる状態」を減らしていくことこそが重要なのではないでしょうか?
この考え方は、落合陽一氏が自身を「機会喫煙者」と表現していることと通じるものがあります。楽しむ機会を自ら選択する自由は残しつつ、習慣的な依存から自由になるという考え方です。
プログラミングへの示唆
興味深いことに、この考え方はソフトウェア開発にも通じるものがあります。良いコードの特徴とされる保守性や拡張性とは、無駄を省きつつも、必要に応じて新しい要素を柔軟に取り入れられる余地を残した状態のことを指すのではないでしょうか?
過度な最適化や硬直的な設計ではなく、必要十分な機能を維持しながら、将来の可能性に対して開かれた状態を保つ。それこそが、テクノロジーと人間の理想的な関係性なのかもしれません。