AI時代に残り続けるものとは?

AI時代に残り続けるものとは?

AI時代とデータの再現

AI技術の進歩に伴い、私たちは「データに基づく再現や予測」を日常的に目にするようになりました。過去のデータを大量に集めて学習させることで、AIは文章や画像、音声、動作など、多彩なアウトプットを作り出せるようになっています。大量のデータがあればあるほど、より正確かつ高精度な結果が得られるのは、今や一般的な理解となりました。

しかし興味深いのは、学習に必要なデータの「量」が次第に減少している点です。例えばStable DiffusionのLoRA(学習された差分)を用いて、新たな画像生成モデルをカスタマイズするとき、数十枚程度の画像でも十分に特徴を学習させることができます。つまり、より汎用的なモデルに近づくほど、追加で必要とされるデータ量が少なくなる傾向があるのです。

必要なデータ量の変化

以前は「AIを高精度にするには膨大なデータが不可欠」と言われていました。しかし、ベースとなる汎用モデルが高い汎用性を持つほど、新しいタスクに合わせて微調整するために必要なデータ量は著しく少なくなります。20~30枚の画像からでも、新しいタッチのイラスト生成を可能にしたり、特定のスタイルを継承させたりといった再現性が実現できるのです。

そうすると、これまで「AIに学習させにくい領域」とされてきた部分も、今後はデータ化さえできればすぐに再現されてしまう可能性があります。そこに生き残るのは、果たしてどういったものなのでしょうか。実は、それこそが「データにならない何か」なのではないかと思います。

データにならない何かとは

データ化が進む現代社会においても、人間が生み出すすべてをデータに変換できるわけではありません。瞬間的なひらめきや感情の揺れ、人と人との関係性の微妙な機微など、数値やラベルで表現しきれないものはたくさんあります。

一方で、「実は世界自体が物理法則というプログラムに従っている」とする仮説も存在します。その見方をすれば、私たちは本質的にはデータの一部であり、すべてが因果関係や物理演算によって導かれているのかもしれません。とはいえ、実際にはそれを完全にデータ化し切るには莫大な時間とリソースが必要でしょう。したがって、人間の感覚としては「データにならない何か」が存在し、それが私たちの中に一瞬一瞬、湧き出ては消えるのです。

この「一瞬一瞬」の積み重ねこそが、私たちの生きる実感や、人間としての面白みを形作っているように思います。

世界のプログラム的性質と熱的死

自然界にはエントロピーが常に増大し、無秩序へと向かうという法則があります。物理の世界では、最終的にすべてが均質になり、いわゆる「熱的死」を迎えるという考え方がよく知られています。量子論などの観点を踏まえると、この見方が厳密に正しいかどうかは議論の余地がありますが、それでも世界は大きな流れとしては「均質化」に向かっていると捉えられます。

そんな中で、新しい出会いや体験は積極的に自分自身を変化させようとする行為であり、局所的にエントロピーの増大とは逆行しているように見える瞬間でもあります。人間が旅をしたり、新しい本を読んだり、新しい人に会ったりすることで得られる刺激や気づきは、いわば「データにならない何か」を作り出す貴重な機会なのです。

人間の面白みを紡ぐために

AI時代を迎え、そして汎用モデルが進化するほど、私たちの生活はさらに便利で予測可能なものになっていくでしょう。しかし同時に、「データにならない瞬間」こそが人間としての価値を高め、新しい発想や創造性の源になっていくのではないでしょうか。

未来をプログラムとして見るならば、すべては因果律に縛られた巨大なデータとも言えます。ですが、人間はその中であえて少しだけ逆らい続ける力を持っています。思わぬところで生まれるアイデアや、ささやかな感動を重ねていくことが、私たちが「人間らしさ」を感じる瞬間を作り出すのです。

MyTHはこれからも、AIと人間の関係をより豊かにし、その中で生まれる「データにならない何か」に注目し続けたいと考えています。新しい技術が私たちの暮らしを支える一方で、人間ならではの面白さを失わない。そんなバランスを探りながら、新しい世界の形を提案していきたいと思います。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。